これまで

フィットネスジム経営(17年目)

2店舗を20名のスタッフとともに運営中
各店舗をマネージャーに任せ、指示なくとも自律自走する組織を実現。
その先に、スタッフにもお客様にも、トレーニングをライフワークとして楽しめる場をつくり続けている。
経営者メンター

17年にわたるフィットネス事業の経営と、国内外のさまざまな経営理論・原理原則の学びと実践を重ね、経営者とのマンツーマンセッションを提供。
フィットネスをはじめ、全国チェーンの飲食業、出版社、著者など、規模も業種も多様な経営者をサポート。
自身の事業で実践してきた、社長が消耗しない「指示なし組織」を実現。
そしてその先に、経営者自身が本当にやりたいこと、ライフワークにエネルギーを注げるよう伴走しています。
これから
私が心を震わせるのは、人生の中で、いつか必ず思い出すような瞬間です。
それは、特別な旅先かもしれないし、何気ない日常の一コマかもしれません。
一日の終わりに、ふと思い返したくなるひととき。
時間の感覚が消え、永遠のように感じられる瞬間。
それは人生の終わりにも、「ああ、自分は生きた」と思える記憶。
私は、そんな瞬間を人生の中に増やしていきたい。
そして、そこに集うのは“オモロい人”です。
好きなこと、愛することに夢中になり、
生き様や価値観そのものが、人の姿になって歩いているような人。
そんな在り方に惚れてしまう仲間たちと、
忘れ得ぬ瞬間を分かち合うこと。
これが、私の情熱です。
“オモロい人”と出会い、一緒にオモロいことをする。
心震える忘れ得ぬ瞬間を分かち合う。
そんなことを特別なものではなく、もっとカジュアルに日常へ。
そのためには、それを支える人と人との関係性や、社会のあり方も大切だと思っています。
今の社会では、人はしばしば「どれだけ役に立つか」で価値を測られます。
生産性が高く、効率が良いほど「優秀」とされ、それに見合った対価を得る。
いつしか、“役に立つ人ほど価値がある”ように見えてきます。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
けれど、それだけで人の存在が定義されるものではないと思うんですよね。
人は、そもそも価値づけられる存在ではありません。
役に立とうが立つまいが、生まれながらに愛される存在です。
人を条件付きで測らない。
損得抜きで人と関わる。
そんな関係性の中で、ご縁が生まれ、信頼が育まれていく。
そんな信頼から、また新しいご縁が生まれ、オモロいことが始まる。
それが人から人へ、社会へと広がっていく。
私は、そんな循環を育てていきたいと思っています。
この思いには、きっかけがありました。
それは、“かっこいい大人”との出会いです。
2025年までの私は、どこか人生が本番ではないような、自分ごとではないような、そんな虚しさを感じながら生きていました。
悪くはない人生ではあった。
でも振り返ってみると、そこに鮮やかな実感や手応えがないんですよね。
そんな中、これからの生き方を模索していた2026年。
目の前の景色が変わるような鮮烈な出会いがありました。
ちょうど一回り年上で、確固たるアイデンティティと自分のスタイルを持ち、その生き様そのものが人の形をしている刺激的な人。
生き生きと、自分の在り方、生き方を楽しんでいる。
「めっちゃかっこいい」と思ったんですよね。
これまで、「こんな人になりたい」と誰かに憧れたことはありませんでした。
それがこの歳になって初めて、「ああなりたいな」と思える大人に出会った。
一回り年上のその人を見て、
「10年後、自分もこんな大人になれたら楽しいだろうな」
と考えたら、もりもりと生きる活力が湧いてきました。
私は、これからの人生を使って、こんなかっこいい大人になりたい。
そしていつか自分も、次の世代から
「こういう大人になりたいな」
と思ってもらえるような人でありたい。
では、これからどんなふうに生きていきたいのか。
私は、「生まれてきて良かった」と思える瞬間を増やしたい。
自分自身にも、そして関わる人たちにも、そんな瞬間が増えていったらいいと思っています。
人生には、良いことも悪いことも起こります。
思い通りになることも、ならないこともある。
その一つひとつを、良い悪いと決めつける前に、ありのままに見て、感じて、味わってみる。
人生で起こる瞬間を、分け隔てなく味わい尽くす。
私は、それが人生における最高の贅沢だと思っています。
そして最後には、人生をやりきり、心残りなく、自分を使い切りたい。
その中にはきっと、
「生きている」
「生まれてきて良かった」
と思える瞬間がある。
人生に目的はありません。
ただひとつ提案できることがあるとすれば、「人として熟す」ことではないでしょうか。
では、人として熟すとはどういうことなのか。
孔子は、自らの人生を振り返り、70歳の境地をこう表現しました。
「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」
70歳になり、心のままに振る舞っても、人の道や原理原則から外れることがない。
私は、ここに「人として熟す」の一つの姿を見ています。
また老子は、理想的な在り方を「水」にたとえました。
争わず、形を決めず、その場に応じて姿を変えながら、自然に流れていく。
この「水」のような在り方もまた、人として熟した先にある境地なのではないかと思っています。
そして、孔子と老子がそれぞれの言葉で表したこの境地は、私が人生を通して探究している「ニュートラル」という在り方にもつながっています。
良い、悪い。
正しい、間違っている。
そんな自分の中にある偏見という眼鏡を外して、世界をありのままに見る。
足りないものを探すのではなく、
すでにあるものに目を向け、足るを知る。
私にとってニュートラルとは、偏見のない「完全な世界」に生きること。
他者や社会が求める自分に合わせるのでもなく、何かになろうとするのでもない。
何かを足すのではなく、ないはずの不足を探すのでもなく、本来の自分を取り戻す。
人間も自然の一部として、自然な自分のままに生きる。
自然の摂理と調和するように。
そして、生命力の流れる方向に生きる。
偏見という眼鏡を外し、完全な世界にピントが合ったとき、世界の見え方、そして自分の人生そのものが一変する。
私にとっての「フロー」とは、そんなニュートラルな状態です。
人として熟すとは何なのか。
ニュートラルに生きるとはどういうことなのか。
私自身、まだ答えを持っているわけではありません。
だからこれからも、自分のコンフォートゾーンから一歩外へ出て、オモロい人に会い、オモロいことをして、心震える瞬間を味わっていきたい。
これからの人生を使って、そんな生き方を探究していきたいと思っています。
